Epitaph

日々の徒然なることばが、生を形作る。

「考える」ことの大切さ

 自分の見ている世界が、他人の見ているそれと全く同じであるとは、完全に保証できるでしょうか?身長が異なれば見える世界の高さが異なりますし、視力が違えばクリアに見える世界の範囲も異なります。持っている知識、というのも左右される要因になるでしょう。ある一匹のネコを見たとして、一般的な人間と専門家との間では、見方も異なるはずです。そう考えると、自分の見ている世界というものは、随分ぼんやりとしたものに思えてきます。

 

 ただ、そこから翻して考えることなしにあるがままを受け入れるというのは、とても残念なことに思うのです。年々「考えること」を放棄するひとが増えてきている気がします。「なぜ?」を通り越して「そう決まっているから」で完結してしまう。なぜ人からものを盗むことは悪いことなのでしょうか?なぜ1+1は2なのでしょうか?幼少の時期には周りから面倒がられるほどに聞いてまわっていたことが、大人になるとできなくなってしまったのでしょうか?

 

 このような疑念を強く抱くようになったのは、「ひとの気持ちを考えられないひとが増えている」と感じたからです。そのSNSの、些細かもしれない投稿が、特定のひとたちを傷つけてしまうかもしれないと、配慮できなかったのでしょうか?そのようなことは、「送信」ボタンを押す前に、一度立ち止まって考えてみれば、すぐにわかることです。それはただ、立ち止まることさえも億劫で、忘れてしまったのです。

 

 ひとは、意識しなければ簡単に良くないことを犯してしまいます。全く意識することなしに常に善行を成し遂げられるのならば「聖人」と呼ばれることでしょう、だからそのようなことばがあるのです。自分を含め凡人には常に意識して「考える」ことが必要なのです。そのためにはある程度の時間は、どうしても必要になってきます。すべてについてよく考えろとは言いません、それこそノイローゼになってしまいますから。ただ「考える」という行為それ自体に大いに価値があり、尊重されるべきものではないかと感じているのです。アイデアや優しさ、人間としての豊かさというものは、このようなところから生まれるものなのではないかと思うからです。