Epitaph

日々の徒然なることばが、生を形作る。

5月の憂い/伝統

五月は何事にも、概して大きく停滞しておりました。シナリオ制作に打ち込む時間は充分にあったのにも関わらず、ほとんど執筆は進みませんでした。「とにかく何か成果を上げることが重要だ」と考えていながら、実際の行動はそれとはまるで逆行するものでしたので、余計に僕の精神を疲弊させていくことになりました。

 

別に僕は「成果こそ全てだ」と、成果主義に陥ったわけではありません。しかし「実績」の類の重要性を深く認識したのも事実です。やる気だけはあっても、実力が伴っていなければ意味はありません。むしろやる気はあまりないがそれを補ってあまりある能力を有している人材の方が重宝される場合さえ、クリエイティブな現場ではあることかもしれません。この「能力」を最も他人にわかりやすい形で見せられるのが「実績」なわけで、だからこそ重視されるのだと考えています。

 

しかし僕はこの潮流に、全く賛成できるというわけではありませんでした。僕はあまり「妥協しすぎる」ということをしたくはなかった、作品というものをあまりにも「ビジネス」として考えたくはなかったのです。僕はビジネスマンである前にクリエイターであり、アーティストでした。アーティストが追求するのは「究極の美」であり、そもそも、測定する指標が全く異なっていたのです。

 

僕が目指すのはただ一時的に消費されるだけに過ぎない娯楽ではなく、ある歴史のなかで、連綿と受け継がれるものであったのです。そして、僕の意識は「伝統」へと向けられていきました。伝統が、伝統であるとされる理由とはなにか? ただ長年にわたって存続してきたものが、無条件に伝統であると認められるわけではないでしょう。長期にわたって、時流による変化を受けながらも、それ自体も適応する形で高い評価を受け続けて来た。そして、結果として「伝統」と他称されるに至ったのです。

 

僕の営みは伝統を紡ぐことです。そして、その目的を達成するためには「歴史」を踏まえる必要がどうしてもあったのです。どんな事物にしたってそうです。過去の積み重ね、そしてそれらから新しい何かをまた新たに積み重ねることによって、今というものは成り立っているのです。過去を一切顧みないのだとしたら、上辺だけは綺麗に見えても、中身は空っぽです。そんなものは一時は人々を魅了したとしても、長きにわたって騙し通せるわけではありません。そして中身の詰まった作品(シナリオ)の作成には、一朝一夕の努力では、充分ではなかったのです。