Epitaph

日々の徒然なることばが、生を形作る。

不惑

未だ無職です。もはや若いのかおじさんなのか微妙な年ごろになってきました。「中年の危機」とまではいきませんが、なんだかやばいなあ、とは感じています。

 

今までは流されるままに生きていてもなんとかなっていたのですが、そんな僕にも現実という問題が着実に訪れてきています。先日、母と久しぶりに二人きりで外出する機会があったのですが、そこでの母の僅かな衰え様に、内心憂いのようなものを感じずにはいられませんでした。これまでの僕は両親の甘い蜜を吸って生きていたのが、これからは僕が両親を支えていかねばなるまいと悟ったのです。そのためには、今のように定職にも就かず、なんとか生きつないでいるような状況から変わらなければならないことは、あまりにも明確でした。

 

とはいいましても、これからも僕の基本的なスタンスは変わりません。というのも、焦ってばかりいては、却って結果も伴わないものだと思うからです。とにかく書くしかありません。今のところは、たまたま僕は運がないだけだと感じています。いつかは僕の能力、人間性を信じてくれるところや人たちが現れてくれることを信じて、書き続けるだけです。ただし、今年中くらいには、流石にどこか拾ってくれませんか? という、今年の抱負でした。

殺!一周年/ボツ案ども

去年のこれくらいの時期に大学を卒業して創作活動を始めたので、およそ一周年ということになります。まあ、特に何にもめでたいことはないですし、実際何の成果も挙げてませんけどね。一年やって芽が出ないのはどうなんだって気もするわけですが、同時にそもそも大学を出てから始めるのは遅すぎるだろ、って気もするわけです。

 

転職サイトに登録してみたり、就職情報をときどき見たりしているのですが、そこで思うのが「みんな早いうちから色々考えてるんだなあ」っていうことです。「今大学三年生で○○という職業になろうとしているのですが~」とか、「○○になるために○○の勉強を始めた方がよいのか~」とか。真面目に将来の目標に向かって考えているんですよね。そこで僕はどうだったかなあと思い返すと、将来への目標とか希望といったものは全くなかったですね。その日その日を生きたいように生きてました。絶望感はなかったですけど、「まあ何とかなるやろ」っていう軽いノリで。まあ、何とかならなかったわけなんですけど。

 

「就活」なるものをすれば、自然とどこかに就職し、なるようになるものと思っていました。が、そんなことは全くなかったですね。あっと言う間に無職です。在学中、親が「学歴だけ身に付けても、却って足枷になるかもしれないぞ」という趣旨のことを言っていて、当時はまるで意味がわかりませんでしたが、今なら少しわかる気がします。まあ、当時の僕はこの社会というシステムに反抗している気概があったのかもしれません。

 

何とかならなかったのでやっと重い腰を上げて始動しております。とりあえず、何とか生存はできているので、次はある程度安定した収入を手に入れたいところです。というのも、将来結婚ということをしてみたいし、子供というものも授かってみたいからです。もうすでにちょっと厳しい気もしていますが、何もできずに死んでいくのも嫌なので、自分のペースで頑張っています。

 

なんだか本題に入るまでにまとまりのないことをつらつらと書き連ねてしまいました。話は変わりまして、今回はこの一年間で考えていたこと、考えたがまとまらなかったもの、要するに「ボツ案」をまとめて、供養しようという回です。「こんなこと考えてました」っていう感じにとらえてもらえればと思います。

 

僕は最初からゲームシナリオを書こうと決めていました。書く媒体だと小説とか他にいろいろあると思いますが、そのなかからシナリオに絞った理由は単純で「普段本とか読まないから」です。あと、「書くこと自体に興味があるわけではないから」というのもあります。というわけでストーリーを考え始めたのですが、最初は「死」をテーマにしよう、と考えました。そして考えを深めるうち、余多ある「死」のなかでも「自殺」に焦点を当てたいと思うようになりました。何故なら、自殺とは必然的なものであったからです。

 

この世に必然的なものなどありません。科学的な視点では、常に100%ということはありえないわけです。ということで、今の僕の健康も、100%保証されたものではないのです。1秒後には心臓麻痺を起こして死ぬかもしれないし、空から降ってきた大量のカニに押しつぶされて死ぬかもしれない。究極的にいえば、すべては偶然の産物なのかもしれません。

 

「死」も物語のなかでは偶然襲ってきます。交通事故に遭って死亡した悲劇のヒロイン。不治の病によって余命いくばくもない不幸な少女。ただ僕はこれらの「死」は、あまり好きではなかったのです。つまらない考えかもしれませんが、交通事故に遭う可能性はこの日本という国に住んでいたならかなり低いし、不治の病というのも医療の進歩によって、幸運にもその多くが治療可能になっています。あまりにも偶然的なことすぎて、僕の身近には感じなかったのです。このように感じる際の解決策として、「物語の初めから設定されていることにする」という方法があるかと思います。つまり偶然性の高いことが最初からあって、そこから物語を発展させる、ということにすれば、この偶然ありきで物語はあるので、物語の中盤で交通事故が起こるよりかはいくらかは違和感はなくなるかと思います。ただ僕は、たとえフィクションであっても、最初に書く作品としてはどうしても身近に感じたかったのです。これはあくまで意地に過ぎないのですけれど。

 

僕は「自殺」とは偶然に起こり得るものではなく、理由があって、深い絶望と信念を持ってもたらされる結果、行為であると信じたいし、またそのことをメッセージとして伝えたかったのです。これはあくまで願望にしかすぎませんが、この願望を説得力のある(と、思わせられる)形で物語を紡ぐべきだと考えているのです。しかし、それは叶いませんでした。

 

なぜ人は自ら命を絶つのか。その理由を論理的な説得力を以て構築することが、僕にはどうしても出来なかったのです。困難や絶望を抱え、そこから自死という行為に結実するまでの人物像の創造は、未熟な自分にはどうしても出来なかった。9月から11月頃まで考えた末、結局ボツになり、全く違うテーマで最初の作品を書きました。11月中旬~1月中旬頃に執筆し、完成させました。

 

2月~5月頃は大きく迷走しておりました。この頃は「狂気」をテーマにした作品を書きたい、と考えておりました。というのも、最初に書いたものはなんとか完結させられたものの出来に満足しておらず、「次は、本当に書きたいものを満足がいくまで自由に書こう」と決めたからです。しかし、これも結局構想段階で止まってしまいました。また難しすぎることを設定してしまったようです。

 

「狂気」を扱った作品自体は無数に存在しますが、僕が目指したものは主に「ゲームシナリオ然とした狂気的表現の脱却」です。色々なゲームのシナリオを見てきましたが、狂気を表す表現はある程度固定化されているなあと感じており、この一種のマンネリ化を解放して、日常的なごくありふれた文章から狂気を感じるようなものにしようと考えたのです。例を出しましょう。ゲームシナリオ的な狂気の表現として、

 

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺

 

という風に、メッセージウインドウいっぱいに同じことばを連続させる、というものがあります。僕は、正直このような表現には飽き飽きしていました。「そうはならんやろ」と。「死ぬほど憎んでても、そんなには連呼しないやろ」と思っていました。というのも、一般的には「狂っている」とされる犯罪者(特に、シリアルキラー)の映像や資料を見て、このような表現への乖離を感じずにはいられなかったからです。

 

シリアルキラーが行う大量の殺人には、彼らなりの理屈の通った理由があるのです、たとえそれが一般には到底受け入れられないものであったとしても。そして、それを話す彼らの口調は、多くは高圧的で怒鳴っているようなものではなく、むしろ穏やかで淡々としています。もしかしたら、シリアルキラーになる素質を持った人間は、身近にいるかもしれないし、もしかしたら僕自身が狂人なのかもしれません。このような「穏やかな狂気」をゲームシナリオ上で表現しようとしていたのです。

 

しかし、これも結局うまくいきませんでした。色んな設定が浮かんでは消えていきました。そのなかでも一番おかしなのは「主人公(狂人)を高次元の住人と思い込んでいる存在にする」というものです。これは自分でも何をいっているのか意味がわからないのですが、主人公は高次の存在ですから3次元上の私たちの存在を認識できるのですが、対して3次元上の私たちは主人公を認識できません(と、主人公は思い込んでいます)。そして私たちから見た主人公は、高次の言語を用いているので何を言っているのかさっぱりわかりません。この主人公と3次元の人間たちの乖離を描こうという案があったのですが、様々な不具合や矛盾があり、結局断念することにしました。

 

最近もまた新しいものに取り組んでいまして、そろそろ1年経つし、おまけにいい歳だしここらでプロになる決定的な一発を作ろうとしていますが、もう2か月くらいずっと構想段階で悩んでおります。しょうもないものだと、「ステロイドの副作用と周囲からのプレッシャーで若くして亡くなったボディービルダーの話」なんかがありまして、結構深くまで練りましたが結局ボツになりました。今は全然それとは毛色の違うものを考えています。果たして今年中にできるだろうか。

燃やす6月

6月は充実していたと思います。あくまで、先月と比較しての話とはなるのですが。結構、色々考えて、そして書いていました。これまではインプットばかりでしたが、アウトプットを通して、自分の目標というか、ビジョンのようなものが見えてきた気がします。まあ、それにしても、もう「おじさん」と呼ばれても差し支えない歳に差し掛かっておりますので、歩みとしては随分と遅いように思えてならないのですが。

 

これはただの言い訳に過ぎないのですが、アウトプットよりもインプットの方が偏りがちになるのは、仕方ないことだと思うわけです。といいますのも、「良いものを生み出そう」と考えたときには、他の良いものから要素を吸い上げて自分のものにしていくという作業が欠かせないわけですから。そういう作業にはそれなりの年月を要するものだと思っています。でなければ、表面だけは着飾っていても、中身はスカスカになってしまうと思うのです。まあ、そんなことを必要としないような人を「天才」と呼ぶのでしょうけど、僕は自分のことをそのような種類の人間だとは思っていないので、地道に歩もうというわけです。

 

「プロになりたい」、「その道で食っていきたい」というのは、常々考えていることです。そのためには、やっぱりそれなりの量は書かないといけないのかもしれません。というか、今の自分の生活はほんとになんとかやっている(実際は、やっていけていませんけど)という状況ですので、そろそろ願望、というか目標が現実にならないとまずいです。でも、むやみに大量に書いたりすることは無意味だと思っています。やっぱり質の良いものを積み重ねていかないといけないと思うわけです。ですから僕は、ずっと前から非効率的で非生産的かもしれない生き方を、ずっと実践しているわけです。そうすれば、やがて反転して良い方向に人生が向かっていくものと信じて。

 

やっぱり僕の目指すもの、作っているものは「アート」だと思うわけです。まあ、そうとはいっても、商業的観点から、締め切りを破る、遅刻するということを犯すつもりはまったくないわけですけど。あくまで志としての話です。意識高い系、ってやつです。「アート」に関する深堀りは、別の機会にしようと思います。

 

話は変わりますが、今日は七夕の日ですね。僕は願い事云々はあまり信じていませんが、七夕自体は好きです。というか、ロマンティックなものとか、スピリチュアルなものはわりと好きです。といっても、一般的な「好き」とは、ちょっと視点がずれてるかもしれませんけど。そういう性分なものですから、僕はこんな日でも特に星に祈りをささげるようなことはしないわけですが、叶ったらいいなあ、と思っていることはあります。というのも、シナリオのサンプルを作成したりトライアルに応募したりして、今は数社から返事を待っているところです。これまでも何回も落ちてきましたけど、いまだに落ちるたびにすっごい凹みます。どれもこれも、本気で人生変えたいと思って、命燃やす勢いで取り組んでるので。入念にリサーチして、分析して、一切妥協せず作ったのにダメだったとなると、ほんとにぐったりしちゃいます。そろそろ、一回くらいは認めて欲しいなあ、と思っています。認められるために書いてるわけじゃないですけどね。でも、一回くらいは、ね。

5月の憂い/伝統

五月は何事にも、概して大きく停滞しておりました。シナリオ制作に打ち込む時間は充分にあったのにも関わらず、ほとんど執筆は進みませんでした。「とにかく何か成果を上げることが重要だ」と考えていながら、実際の行動はそれとはまるで逆行するものでしたので、余計に僕の精神を疲弊させていくことになりました。

 

別に僕は「成果こそ全てだ」と、成果主義に陥ったわけではありません。しかし「実績」の類の重要性を深く認識したのも事実です。やる気だけはあっても、実力が伴っていなければ意味はありません。むしろやる気はあまりないがそれを補ってあまりある能力を有している人材の方が重宝される場合さえ、クリエイティブな現場ではあることかもしれません。この「能力」を最も他人にわかりやすい形で見せられるのが「実績」なわけで、だからこそ重視されるのだと考えています。

 

しかし僕はこの潮流に、全く賛成できるというわけではありませんでした。僕はあまり「妥協しすぎる」ということをしたくはなかった、作品というものをあまりにも「ビジネス」として考えたくはなかったのです。僕はビジネスマンである前にクリエイターであり、アーティストでした。アーティストが追求するのは「究極の美」であり、そもそも、測定する指標が全く異なっていたのです。

 

僕が目指すのはただ一時的に消費されるだけに過ぎない娯楽ではなく、ある歴史のなかで、連綿と受け継がれるものであったのです。そして、僕の意識は「伝統」へと向けられていきました。伝統が、伝統であるとされる理由とはなにか? ただ長年にわたって存続してきたものが、無条件に伝統であると認められるわけではないでしょう。長期にわたって、時流による変化を受けながらも、それ自体も適応する形で高い評価を受け続けて来た。そして、結果として「伝統」と他称されるに至ったのです。

 

僕の営みは伝統を紡ぐことです。そして、その目的を達成するためには「歴史」を踏まえる必要がどうしてもあったのです。どんな事物にしたってそうです。過去の積み重ね、そしてそれらから新しい何かをまた新たに積み重ねることによって、今というものは成り立っているのです。過去を一切顧みないのだとしたら、上辺だけは綺麗に見えても、中身は空っぽです。そんなものは一時は人々を魅了したとしても、長きにわたって騙し通せるわけではありません。そして中身の詰まった作品(シナリオ)の作成には、一朝一夕の努力では、充分ではなかったのです。

悔しい、でもまたやる

昨年11月頃から18禁ゲームのサンプルシナリオを作り始めて、およそ2か月後の1月の中頃に完成させました。それをブラッシュアップさせたものを持ち寄っていくつかの会社に応募しましたが、いずれも落ちました。駄目でした。人生で初めて創作した文章作品でしたので、やはりそううまくはいかないとは思っていましたが、それでも一抹の期待は抱いていたわけですから、悔しいです、悲しいです。かなり、涙を流すくらいには。

 

作品は今の自分が持ちうる能力を全て投じて、全身全霊で、「完結したものを」作成したのです。生半可な志ではありませんでした。僕が書いたのは小説ではなく、ゲームの「シナリオ」です。シナリオライター志望のひとで、シナリオではなくむしろ小説に近いものしか書けない、ということは良く耳にします。そのなかで、僕はゲーム内の演出、背景、キャラクターの描画、音楽など、全てを想定して作成したのです。そして、起承転結のある、パッケージとしての作品を構築した積もりでした。自らの魂を込めて作ったのです。ですから、無駄な文章など、尺稼ぎなど、一つとしてありませんでしたし、「ここの文章がこういう理由があって必要である」と、全ての文章、構成について説明できるようにしたつもりです。でも、それでも、駄目でした。

 

「また駄目だったのか」という思いがこびりついて離れません。僕の人生は挫折と失敗ばかりです。色々とチャレンジしては、そのたびに志半ばで挫折しての繰り返しです。だから、「未だ、何も成していない」という思いがあります。そんな自分を払拭するために、「シナリオ」という作品を完成させたのですが、それも未だ、成功には到達していなかったようです。

 

でも、今は「またチャレンジしたい」という思いがあります。まだ構想段階ではありますが、次は自己の内面、深淵を曝け出すようなものを作りたいと思っています。それは現在の美少女ゲームのトレンドとはかけ離れたものになるとは思いますが、自分が成長するため、自分のスタイルを確立するためには、必要なステップだと感じています。「トレンド」だとか「主流」だとかいう指標よりも、僕にとっては大切なものだからです。

 

正直、今のフリーター(といっても、実際はほぼ親のすねかじり)生活は、長くは続けられませんし、続けたくもありません。このまま定職に就かないまま4月を迎えそうですが、一刻も早くこの状況を打破したいと思っています。だって、お金がなくて買いたいものも買えないし、食べたいものも食べられないし、やりたいことも満足にできない生活は、楽しくはありませんから、なにより、一刻も早くゲームが作りたいのですから。

エロが書きたいんや!

 先月からシナリオサンプルを書き始めていまして、ゆっくりですが進行しております。すぐできるだろう、と思っていたのですがそんなこともなく、もうすぐ丸一ヶ月が経とうとしています。別に期限を決めているわけではないのですが、できるだけ早く仕上げたいところです。「一日7000文字!」とか「一日10KB!」などと目標を定めてもどうせできないので、現実的な目標を定めたいと思います。「一日一文字でも進める!」

 

 それにしても筆が遅すぎるなあとつくづく感じます。昔からなんでも遅いんですよねえ。夏休みの宿題も最終日にまとめてやるか諦めてやらないかのどっちかでした。なんでかなあと考えたときに、やはり強制力がないからだと思います。自分を律する力が皆無なので、いつも目先の快楽だけを追い求めてしまいます。ブログの更新ももっと頻度を上げていきたいと思いっているのですが、なかなかに億劫で、滞っておりました。実際は将来の仕事につながるかもしれないし経済的にも無職で不安なのだから早く色々とこなすべきなのでしょうけど。ただ、自分のキャパシティーを越えて作業をしてもいいものはできないし、なにより体調を悪くしてしまうと思うので、自分なりのペースでやっていきます。ただその場合、キャパシティーが狭すぎる、っていう別の問題があるわけなのですけど。

 

 さて、今回のタイトルは僕が最近強く思うようになったことです。ここで言いたいのは「エロが書きたい」ということであって、「書くこと」自体に強い興味はないということであり、それと同時に「エロしか書きたくない」ということではない、ということでもあります。随分とややこしい説明にはなりましたが、これは今の自分の純粋な思いです。

 

 日に日に「ゲームを作りたい」、「ゲーム制作に携わりたい」という思いはましております。そのためにはどんな仕事だってやってみせる、という思いであります。別に「シナリオライター」という特定の職業にこだわりがあるわけではありません、その分野でならもっとも効率的に、効果的に業界に貢献できると思ったから志望するようになったのです。そのためにいままでいろんな挑戦をしました。エンジニアになろうかな、と思ってプログラミングを勉強しましたが、Javaで挫折しました。声優になろうかな、と思いましたが男性役は需要がほとんどないだろうし、なにより男なのでヒロインの声優は絶対できないなということで、これも挫折しました(少し変かもしれませんが、男でありながらエロゲのヒロインの声を自分であてたいと今でも思っているのです)。HTMLとCSSにも挑戦しましたがいずれも挫折しました。スクリプトは少しできるようになりました。あといま勉強しているのは、作曲ぐらいです。絵も描こうと思いましたが(業界的にグラフィッカーが人手不足らしいので)、なかなかに難しいかなと。ただ、ガチガチの文系で、にっちもさっちもいかなかったプログラミングと比べてまだなんとかなりそうな気はわずかながらします。絵が上手くなるころにはおっさんになってるかもしれませんけど。

 

 「エロ」、つまり「18禁」には大きな可能性を感じています。なぜなら、年齢制限のかかるゲームには、それにしかできない多用な表現があるからです。具体的なタイトルなんかは出さないですが、「ああ、これはコンシューマーじゃ絶対だせないだろうな」というゲームを今まで数多く見てきました。表現の拡充としての「エロが書きたい」であるわけです。

 

 ひさびさの更新で長々と書いてしまいましたが、ひとまずはシナリオを完成させて、できることならばゲームの製作に携わりたいところです。ゲームを作ってみたい!

素顔を見せて

 先日大学の卒業式がありまして、正式に大学を卒業しました。特に就職先も決まっていないのでこれからはフリーターとして過ごすことになります。希望が1割、残りは不安といったところですが、まあこれからも楽しく生きていきたいと思っています。夢というか目標のようなものもあるのでそれに向かって頑張っていきたいとも思います。「頑張る」ということばは安易には使いたくないのですが、これは本心から思っていることです。思っているだけではないのです。頑張ります。断言します。

 

 卒業式はこのご時世ですから別に無理に行かなくても良かったのですが、出席しました。教職員の方々から卒業生に向けてのメッセージを聴いたり、学位記なんかを受け取ったりしました。友達もいなければ知り合いもいなかったので、終わったらすぐに帰りました。式の間は特になにも感慨に耽ったり考えるようなことはありませんでした。もちろん涙を流すようなこともなかったです。ただ朝早かったので、夜型の僕にとってはとても眠かったです。とにかく眠かった。

 

 その日の夜は貰った学位記や成績なんかを読み返しておりました。酷い成績です。酷すぎてここに載せることも憚られるくらいです、それぐらい酷い成績でした。色々読んでいるうちに卒業したという実感が湧いてきました。同時に日中にはなかったさまざまな感情の波が押し寄せてきました。翌日のバイトはサボりました。社会人(といってもフリーターですが)一日目の大事な日に。理由は「心身の疲労とそれによる体調不良」ということにしておきました。あながち全くの嘘ということではありませんから、サボった、というほどのことではないのかもしれません。

 

 大粒の涙を流しました。理由は色々あったでしょうが、一つは卒業したということを素直に喜べない自分のみじめさに。もう一つは素直な本性をさらけ出すことができない自分の未熟さ、未だに大人になりきれない幼さに。悔しくてたまりませんでした。こんな年になってまだ自立して生活できないなんて。本当の自分はこうなのに、それをうまく表現できていない。そういったもどかしさは今も抱えています。

 

 「自分はこういう人間で、こういうことができるんだ!」と声高に主張するようなことは、奥ゆかしさもなく、恥ずべきことだと思っていましたが、必ずしもそうではないと感じています。むしろ、自分を魅せるということは、これからもっと必要になるのではないかと思います。そんなときに、自分の持つ「ことば」という、この愛すべき力を用いて、立ち向かっていこうと思うのです。やってやりますよ。