Epitaph

日々の徒然なることばが、生を形作る。

常に反逆児たれ

 なにかアクションを起こすときの原動力とは、ひとによって違うものでしょうか。僕のなかでそれは、大きくは「怒り」でした。なにかに反発するときに生まれる感情こそ僕の求めるものであり続け、それは今後も変わらないと思います。ただ一言に「怒り」といっても、実際のそれは緩やかで、穏やかなものです。沸々と湧き上がる反骨的な精神こそが、私の生きる糧となってきたのです。

 

 「勉強しなさい」と親に言われると勉強する気がなくなる、というのは幼年期によくみられる現象だと思われますが、それは至極当然の反応だと僕は思うわけです。そもそも勉強することの意味がわからないし、勉強したからといって、褒められるわけでもないし、全く楽しくありません。それなら、ゲームをプレイして刺激と興奮を得よう、となるわけです。だから、僕は今まで、全て他者の忠告とは逆の方向に舵を切って行動していたような気がします。

 

 この精神は、私にあらゆる事物について疑問を投げかけます。「これは本当に正しいのか?」、「これは本当に間違っているのか?」と。この内なる自問自答に堪えられるのならば、自分以外の世界の全員が反対したとしても、自分にとっての真理となるのです。数、というのはこの場合、大きく考慮するべき要素ではありません。すべては精神のなかの判断であるからです。自らの精神が確立し、平静を得られれば、それ以上のものはいらないのです。

 

 こういう風に心のなかでは思っているわけですが、実際の僕は、全然攻撃的でも、自己主張が強いわけでもありません。ただ心の持ちようだけは、常に批判的、反抗的であり続けたいと思うわけです。